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2011年3月30日

丹羽良徳さん企画「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」プロジェクト報告会開催!

IMGP1364.JPG3月20日(日)、3331 Arts Chiyodaコミュニティスペースにて、出品作家の丹羽良徳さんとゲストの読売新聞社記者の市原尚士さんによる「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」プロジェクト報告会が行われました。
以下、丹羽良徳さんと市原尚士さんが共同で作成した「文字による報告会」を掲載します。
※文中、市原 さんの発言・意見は市)、丹羽さんの発言・意見は丹)で示しています。
※参照している動画は作品のダイジェスト版です。

はじめに
ルーマニアの首都ブカレストのアートセンターPavilion Unicreditでの展覧会「Utopia of Exotic」(2010年12月9日〜2011年2月13日 キュレーター:Andrei Craciun)への 参加作品として実施されたプロジェクト「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」。昨今の世界不況の影響もあり、いまだ共産主義のしこりが残るブカレストで、共産主義時 代を知らない若者が共産主義者を胴上げする。複数の社会主義/共産主義に関わる左翼政党、政治活動家、批評家と交渉し、「あなたがたを祝福 するために胴上げしたい」と 申し出る。断絶してしまった世代同士を強引に結びつけようとすることで、どんな現実が見えてくるのか......。報告会では5年がかりのプロジェクトがどのように進行したのか、作品制作の背景や経費、現地での出来事を織り交ぜながら、その一部始終を丹羽良徳が語った。後半は、ゲストの読売新聞社記者の市原尚士さんと共に、過去の作品を参 照しながら、丹羽良徳が模索する新しい社会介入行為の方向性を語り合った。

耳で聞いている時は面白いなぁ、と思っても、それを直接、文字化したら支離滅裂 にしか読めないもの、それが講演会や報告会ではないだろうか......。
丹羽良徳の「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」プロジェクト報告会も当然、その例外では ない。あの夜、会場にいた人にしか伝わらない微妙なニュアンスの文字化が困難なのであれば、思い切って「文字による報告会」を改めて制作してしまおうと思う。当日、ゲ ストを務めた市原尚士がたたき台の文書を作成、それに対して丹羽が答えるという作業を何度も繰り返して決定稿にまとめた。

IMGP1234.JPGIMGP1353.JPG








今 回の報告会は、会場に畳を敷き、こたつを設置した状態で行われた。できるだけ、ラフで肩苦しくない状態でトークイベントを行いたいとの主旨で、丹羽良徳の自宅 を再現したかのような雰囲気を作り出した。

目には見えないアイデアこそがぼくの作品

 市) 丹羽良徳の仕事の特徴は大別して3点ある。まず1番目はパフォーマンスの動きや構成そのものに何ら芸術性が認められないことだ。極論すれば、見ている私たちでも簡単 にマネできる。普通なら、綿密に動きの軌跡や時間を練習して本番に臨むはずなのだが、丹羽はぶっつけ本番で取り組んでいるようにしか見えないのだ。丹羽さん、あなたは 、やっぱり「ど素人」なのですか? 

 丹)はい、すべてぶっつけ本番で行っています。練習したりすることはありません。誰が行っても、同じです 。その意味では、ど素人です。ぼくは、行為そのものを見せることを主としているので、その行為が何の目的で行われているのか、そしてその行為によって周辺の環境にどん な影響を及ぼすのかを考えます。つまり、その行為の裏側にあるアイデアこそがぼくの作品なんです。 

 市)なるほど。ということは、目に見えな いアイデアの部分はオリジナルということですね。丹羽さんの作品は「水たまりAを水たまりBに移しかえる」にしても「自宅のゴミをサンフランシスコのゴミ捨て場に捨てにいく」にしても、発想がすごくユニークで、誰もが思いつきそうでなかなか思いつかないものばかり。「コロンブスの卵」的というのか。絶対マネできない ところが特長ですよね。

Transforming puddle A to puddle B, 2004 from yoshinoriniwa on Vimeo.
「水たまりAを水たまりBに移しかえる」 2004 パフォーマンス

かつてベルリン の壁があった場所で、水たまりを別の水たまりへと口移しで移しかえる。日本人であるぼくが冷戦やベルリンの壁といった問題にいかに関わることができるかと問うたとき、 ぼくにできるのは、旧東ベルリンの水たまりを旧西ベルリンの水たまりへ移しかえることぐらいではないかと思った。衝突を繰り返してきた東西の問題に対して、日本人とし てどのように関わることができるのかと切実に問い、その行為によって浮かび上がるベルリンの壁という歴史的記憶に向かう。


Go to SanFrancisco to throw away trash of my house tokyo, 2006 from yoshinoriniwa on Vimeo.
「自宅のゴミをサンフランシスコのゴミ捨て場に捨てにいく」 2006 パフォーマンス
日本のゴミをアメリカへ。ぼくの東京の 自宅のゴミを飛行機に乗ってそのまま、サンフランシスコのゴミ処理場まで持ち込んで処理してもらう。地域的な問題を携えたまま国境を飛び越えることの違和感を用いなが ら、政治や社会のシステムで類似点の多い日本とアメリカの関係を問う。ぼくたちが日々作り出しているゴミはどこから来てどこへ行くのだろうか。


 丹)確かに時々「思いつくことだけれど、絶対にやらない事」だと言われることがあります。これらの作品は、誰にでも特別な技術がなくても思いついたらすぐにで も実行できるアイデアです。ただぼくとしては、その誰にでもできそうで、アーティストと観客とが同等のレベルで存在していることがとても重要に感じられるんです。その ために、殆どの場合はアーティストですと宣言しながらパフォーマンスをするのではなくて、何の告知も無しにゲリラ的に、しかも芸術作品とは知らされずに行われるのです 。

プロとは、素人であり続けること!
 市)2番目 に指摘したいのは、結構、弱音を吐きがちなところ。映像を見ていると、丹羽さんの内面の声がしばしば聞こえる気がする。例えば、「くそ暑いよー」「もー、膝ががくがく 。疲れたなぁ」「そろそろ飽きたかな」みたいな感じ。普通のアーティストなら、もう少し格好つけると思うんだけど、そうしないのが丹羽流って感じ。1番目に挙げた素人 臭さと併せて考えても、抜群に「敷居の低いアーティスト」と言えそう。それにしても、なぜこんな素人っぽいのですか。もっとプロっぽい身ぶりをしようとは思わないので すか? 

 丹)その点は、常に意識しているところです。ぼくの作品においては、ぼくの役割は優れた超人的な主人公ではなく、簡単に疲れ、物事に 飽きる一個人にすぎないです。1番目に挙げてくださった素人臭さと併せて正確に言えば、「素人であり続けるというプロフェッショナリズム」になるでしょうか。公共空間の 雑踏のなかに紛れ込んで、通行人などの反応を得ることで初めて作品としての深みが増すことが多いと思っているので、なるべく反応もリアルでなくてはいけない。だから、 大道芸のように「ああこれはパントマイムね!」なんて簡単に理解されては困るんです。すっと大衆の中に紛れ込んで、「一体何なのだろう?」という理解を越えたところま で持って行き、言ってみれば恐怖などの人間の根源的な感情に近いものを引き出そうとしているんです。

どこにもいない 「倒すべき敵」
 市)3番目に指摘したいのは、作品のメッセージが明確には分かりにくいという点。丹羽さんの言葉を借りると、「公共の場を拠点 とし、国内外で、社会への介入を試みるパフォーマンスやプロジェクトを発表」というのが特徴。しかし、介入を試みている割に、その焦点がぼけているというか、訴えかけ る相手がはっきりしていないというか......。つまりは明確な対象が見つからない。例えば「泥棒と文通する」などはその好例だろう。わざとメッセージ性をあいまい にしているのか、それとも戦略的なものではなく、何かほかの理由から訴える相手をあえてぼやけさせているのか?

Communicating with thieves, 2010 from yoshinoriniwa on Vimeo.
「泥棒と文通する」2010 パフ ォーマンス

ヘルシンキの複数の銀行ビルの壁に、営業時間終了後の夜間だけ「泥棒のみなさま、今が盗みに入る時です」という メッセージを大型ライトプロジェクターで投影する。反社会的人物である泥棒とのコミュニケーションを試みることで、共同体に潜在する他者との交信を暗示する。サインを 見た人々は資本主義社会の所有に対する抵抗行為のみならず、日常生活におけるあらゆるレベルの盗みを想像することができるかもしれない。


 丹)よく社会運動的なアクティビズムと比較されることもありますが、打倒すべき悪の根源を設定しているアクティビズムと決定的に違っていることは、ぼくの場合は、 倒すべき相手というのが見えない社会の仕組みの矛盾に対して、ぼくなりの方法を用いて視覚化させようとしている点なんです。そのことによって見えなかった社会の矛盾な どを意識させる訳です。つまり、倒すことを目的とはせずに、敢えてぼやけたグレーな領域を顕著にして、ぼくらの生きる社会の成り立ちを肯定的に捉え直すことなんです。 物事は解決できることばかりではありません。いつまで経っても解決できない問題というものも多くあるのだと思っています。その間で揺れ動く人間社会の在り方を問い直そ うとしています。


偶然は起こる 起きない?
 市)丹羽さんのそういう自由な発想や、良い 意味での素人臭さが一番、本領を発揮するのは、作品が不測の事態をうまく取り込む点だと思う。東京の上野動物園周辺で真夏に撮影された「熊が熊に会いに動物園に行く 」を個展会場で見た時の驚きは今も忘れられない。熊の着ぐるみを着た丹羽さんが必死に四足歩行で前進していると、突然聞こえてくるのが、アンデス・フォルクローレ の名曲「コンドルは飛んでゆく」のもの悲しい旋律だった。恐らくはつらく苦しい心境であった内面と見事に呼応していた。偶然の出来事が、作品に味わいを増すというのは 、良質のアートにはしばしば起こりうること。ただ、丹羽さんの作品ではその頻度が高いっていうのか。上野の熊以外、例えば「水たまりAを水たまりBに移しかえる」などでも面白い偶然があったと か?

A bear goes to the zoo to see bears, 2010 from yoshinoriniwa on Vimeo.
「熊が熊に会いに動物園に行く」2010 パフォーマンス
上野駅から上野動物園 まで、熊の着ぐるみを着た四足歩行のぼくが実際の熊に会いにいく。明らかに着ぐるみだと分かるのだが、途中で会う人々はその行為を応援するかのように振る舞ってくれる 。動物園に入園することはできなかったが、理解不能な目的を持った行為を動物というファクターを通して実演してみせる事で、現実の人間社会ではあり得ない他者の反応を 獲得する。その反応から私達を取り巻く身近な人間関係の在り方を問い直す。

 丹)個人的な意見なのですが、偶然というのは、起こらないと思っています。作品が不測の事態をうまく飲み込むことが出来るというのは、きっとどこでも起こっているはずの、ただし作品にとっては予期せぬ出来事がうまく意識されている だけではないでしょうか。確かに、「水たまりAを水たまりBに移しかえる」の際にも、吸い切った水たまりの中から1ユーロコインが出てきました。ぼくもこれには驚 いてしまいました。でも、ぼくたちが世界の成り立ちを考える時に、物事と物事の関連をつい考えてしまうものです。全く関係のなかった物同士が何かしら作用しあっているのではないかと。ぼくの作品で言えば、ぼくの行為の無意味さによって一時的に、観客は混乱に陥り、一から物事の関係性を組み直している状態ではないかと思います。その ように見てくだされば、作品はある程度成功だと言えるでしょう。

移動する身体・作品
 市)こ れまでの仕事を振り返って考えてみると、ある物や自身の肉体がA地点からB地点に移動する、というものが多い気がする。これは、どうしてだろう? それと関連するんだけ ど、丹羽さんの作品を見ていると、あなたによって働きかけられる、作品化される対象である物や事の方が主人で、そもそも創造主であるはずの作家が下僕になってしまって いるように見えてならない時があるんだけど、この主従関係の転倒については、どう考えていますか? 

 丹)実際、ぼくは金銭を稼ぐために、8年くらいヤマト運輸で宅急便の仕事をしています。雑に言ってしまえば、宅急便というのは、荷物をA地点からB地点に移動させているだけという仕事です。物事を0から作り出すと いうことは不可能ではないかと思う時に、ぼくにとって、この仕事がとても興味深い。物の置かれた環境や場所を変えるだけで、それが価値となってくる。無意思的かもしれ ないが、宅急便という仕事がこれらの作品に影響を与えているのかもしれないですね。ぼくにとっては、このように所謂アートとは無縁の労働をすることはとても意味があるんです。労働と仕事を完全に別物だと捉えていることでもあるんですが、お金が無いからと言ってアーティスト活動に近しい、例えばデザインの仕事だとかアートスペースで 仕事するのはどうしても嫌です。労働は完全に金銭を稼ぐもの、そして仕事とは金銭とは関係なく創造的活動であるべきだと思っているんですね。だから、その境界線がぼや けるようなことはしない、と。理想主義者と言われるかもしれないんですが、はいそうですと答えたいと思っています。 また、作家であるぼくが作品のなかで、向かっている 対象の下僕になっているように見えるとのこと、意図していることではないのですが、普段は見えて来ない物や人の関係に亀裂を入れられるような行為を考えているので、きっと異物が挿入されたような感覚になるんだと思うんです。そこからぼくらの社会の在り方なんかを考えられたら面白いなあと思っています。 

「国民の歴史」を作品化する難しさ
 市)さて、最後になりますが、新作「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」に ついて私の考えを披露しましょう。 この作品は、丹羽さんにとって大きな転換点になったのは間違いないでしょう。これまでの作品は、大学の校舎内の照明を5秒間隔で点滅 させるという「多摩美術大学をぴかぴかぴかにする」以外は、ほとんどがある状況の中に丹羽さんが単身(あるいはごく少数の人間と)乗り込んで、ど のようにその場を変容させるものだった。その場は歴史的に見ても、空間的に見てもごくありふれた場所だし、そこに何か大きなドラマは見いだせなかった。 ところが、今回 の作品はルーマニアの重く、込み入った歴史に正面からぶつかっている。作品には多数の人物が登場し、社会主義者を胴上げさせて欲しいという難しい交渉の過程が映し出さ れる。今までの作品だと、そもそも最初から意思疎通の難しい相手(死んだ魚、ニワトリ、など)だったが、今回は丁寧に話せば理解してもらえるルーマニア人が対象となっ ている。そのためか、交渉があまりうまく行かない過程を見させられると、やや欲求不満気味な感情が倍増してしまう。また、これまで丹羽さんの作品に漂っていた独特の詩 情やカタルシスも不発だった。興味深い観点を指し示しているものの「失敗作」だったように思えてならないのだが、どう考えているのでしょうか?

Make Tama Art University PIKAPIKAPIKAPIKA, 2008 from yoshinoriniwa on Vimeo.
「多摩 美術大学をぴかぴかぴかにする」2008 パフォーマンス
およそ30分間にわたり、多摩美術大学上野毛校舎内のすべての教室・研 究室・廊下・街路灯・野外時計などの電灯を5秒間隔で点滅させる。大勢のボランティアスタッフとの共同体験を通して、一瞬にして消え去る"点滅現象"をかけがえのない生の 悦びに変換する試み。最終的には、5秒単位を無視したオリジナリティー溢れる学生の教室点滅が見られた。他者との共有や共同幻想といったことをテーマに実施されたプロジ ェクト。

 
「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」 2010 社会介入行為 パフォーマンス 
1989年の革命の舞台であったブカレストで革命を知らない若者の手で社会主義者を胴上げしたい と、社会主義を標榜する複数の政治家、アクティビストなどに交渉する。断絶した過去と現在を強引に結びつけることで、忘れられない過去の遺産であった共産主義への感情 的な思いと若者のリアルな言葉を同時に召喚する。※本展出品作

 丹)確かに今回出品している「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」はこれま での作品の作り方とは大きく異なるものでした。自分自身、これまでの方法が何の役にも立たないものだと感じながら作りました。ぼくの過去の作品の多くを知っている人か らすれば、あれっと思うかもしれません。正直なところ、かなり苦戦を強いられた制作だったのですが、このような歴史的出来事や問題に真っ正面から立ち向かっていくよう な作品も制作してみたいと思う気持ちが強かったんです。ですが、やはりそれなりに方法は変えて行かないといけないのも事実、これまでと同じやり方では太刀打ちできない 、そういった状況の中で成長していきたいという気持ちが強いです。成功か失敗かは現段階では、明確に判断していくのはとても無意味だと感じています。それより、10年、 20年くらいの規模で自分の芸術活動を考えた時に、この作品のアイデアと背景にあった自分の思いをもう少し冷静に見つめ直して、今後の制作に向かいたいと思っています。 なので、今後は身の回りの極個人的なモチーフを扱うものから、歴史的な出来事を取り込める制作の両極を考えてみたいと思っています。どこかでその接点も作り出せるかも しれないという予感はしています。 

海外での滞在制作にかける思い
 市)ということは、ある民 族の歴史のような大きなテーマをまたやってみたいということなのですね。ただ、それなら、もう少し現地に長く滞在し、腰を落ち着かせて取り組まないとこれまで同様の高 いクオリティーの作品は厳しいかも。丹羽さんは、今後、海外に長期滞在しての制作は検討していないのですか?

 丹)確かに短期間の滞在では得られる成 果が限られてきます。これまでのやり方も通用しなくなってくると思います。アーティストは日々成長しないといけない。そこでやはり、長期間すくなくとも数年単位での滞 在をしないと見えてこない事もあるんだろうと思っています。単純に日本と海外を行き来するのも、経済的にも非合理的という理由もありますが、今後は短期間のアーティス トインレジデンスの予定もありますが、まずは2-3年を目処にヨーロッパ滞在を検討しているところです。自国の問題を考えるにしても、少し距離を持って捉えたほうが落ち着 いて考えられるかもしれないと思っています。 

 市)その企画に関しては賛成です。一度、日本という国から外に出てみるのもいいかもしれません ね。母国を相対化した上で、世界中で高い評価を受けられる活動を目指すべきかもしれません。 そこで、私から丹羽さんに苦言を呈したい。「水たまりAを水たまりBに移しかえる」の作品がその顕著な 例だと思うんだけど、あなたの場合は、同じネタを何回もやらない方が良いんじゃないかと。何回もやればやるほど、1回目のころの驚き、初期衝動が失われているような気 がしてならないんだけど、その辺り、丹羽さんはどう考えているのですか? 

 丹)ご指摘の通りです。自分に厳しく言えば、一度きりでおしまいにした方が良いかもしれませんね。それが成功しようが失敗しようが、アイデアを実現させたらそこで終わり。どうなろうが、次の作品を作り続ける。過去の作品を振り返らないという意味ではないですが、過去の上手くいった作品を繰り返すのは、良くない。特にぼくの場合は、訓練や熟練の技を要するものではないことは明白であるし、そこで起 こることを素直に受け入れないといけないかもしれないです。日々巻き起こる世界の出来事に純粋に反応して行くためには、作家も日々更新されるべきです。 

 市)そうだよ。惰性でアートをしてもしょうがないし......。まぁ、一つのネタは1回しかやってはいけない、とまでは言わないけども。一つの型に陥ること は、丹羽さんにとって一番、避けるべきことだと思うから、あえて意地悪なことを言ってみました。今後も僕らを驚かせてくれるパフォーマンスを期待しています! 

 丹)丁寧なご意見ありがとうございました。今後もより一層踏み込んで制作に励みたいと思っています。数年単位で制作の拠点を日本に置くのか、それと も海外で何年か制作活動を行うのか、これからの人生設計をする意味でも意識的に活動していきたいと思っています。

[出演者プロフィール]
丹羽良徳 Yoshinori Niwa
niwa.jpgアーティスト。1982年生まれ。多摩美術大学映像演劇学科卒。不可能性と交換行為を主軸とした行為や企てを路上など の公共空間で試みることで、社会や土地の歴史へ介入する「行為」そのものを作品として制作する。多くの場合は、それが何であるのか知らされずハプニング的に行われる。 本来死んだものや社会的に不要なものに働きかけること、便宜的な「A」と「B」による不毛な交換行為、そしてそれを場合によっては誰も見ていないところで繰り返すこと 。そのため他者との対話や関わりは、たびたび一方通行であり、不毛に終わる。不可能性が眼に見える現実を解体し、「公共性」という幻想のシステムの彼岸を露出させる新 たな物語を作り出す。主なプロジェクトの東ベルリンの水たまりを西ベルリンに移しかえる「水たまりAを水たまりBに移しかえる」、泥棒に銀行強盗をお願いする「泥棒と文 通する」などは公共空間でハプニングとして発表された。 

市原尚士 Shoji Ichihara
ichihara.jpg読売新聞社記者。1969年千葉市生まれ。1993年早稲田大学第一文学部(現・文学部)哲学科東洋哲学専修卒業 、同年、読売新聞東京本社に入社。金沢支局勤務などを経て、現在は文化部所属(美術担当)。横浜市在住。



企画・丹羽良徳
広報 ブログ作成・吉澤博之(ARTS FIELD TOKYO)
イベント当日の受け付け・根上陽子、大窟ルミ子
照明・都倉祥(3331 Arts Chiyoda)
写真撮影・中堀徹

そして、当日ご来場して下さったお客様、
今、このブログをご覧になっている方たち、
すべての人に感謝!

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